武田信玄公のお墓 山梨県甲府 / 日本一周 第10回 武田信玄公の亡くなった場所

甲信(山梨県 長野県)

皆様、こんにちは!!
ラッコ店長です。

ロードバイクで訪れた場所を、ピンポイントで紹介するシリーズです。

複数のお墓

武田信玄公のお墓、慰霊碑は全国に複数あります。
著名なところでは、武田神社、大泉寺、恵林寺、高野山、長岳寺などです。

歴史上の偉人のお墓が複数あるのは、珍しいことではありませんが、信玄公の場合、どこで亡くなったのか、埋葬されたのかが明らかではありません。

それは、言うまでもなく、信玄公の死は当時の超国家機密で、対外的には信玄公は生きておられる、と振る舞っていたからです。
(信玄公の没後、しばらくの間は弟君の逍遙軒信廉さんが影武者として対外的な折衝にあたりました)

本墓地の説明板には、この地で信玄公を「荼毘に付し」とありますが、ここでいう荼毘とは必ずしも火葬のことではない、つまり葬儀のこと、と推察します。

いきなりの結論

私自身は、信玄公のご遺体が荼毘に付された(火葬された)のは、勝手ながら長野県阿智村の長岳寺付近であると推察します。

西上作戦 野田城の戦い

その論拠は以下の通りです。

まず、1573年、野田城の戦いを最後に、それまで破竹の進撃を続けていた武田軍は急遽、進軍を止めます。
そして、伊那街道(三州街道)を通って、本拠地まで戻ったと思われます。
(それ以外のルートは徳川領で、敵中を退却ルートとするのは不自然です。)

傍証 御宿監物(みしゅくけんもつ)の書状

信玄公と共に行軍を続けていた医師の御宿監物が小山田信茂(妻が御宿監物の妹)に宛てた手紙によれば、信玄公は三州街道上の信濃国駒場にて亡くなったとあります。

傍証 龍安寺 駒場に於いて卒

また、長野県佐久市にある、龍雲寺は古くから信玄公埋葬の地という伝承がありましたが、1931年、庭園から遺骨と遺品の収められた壺が発見されました。
その中に、大檀越信玄、時に天正元年四月十二日駒場に於いて卒という文言がありました。

佐久市 龍雲寺
https://www.city.saku.nagano.jp/kanko/kanko/townguide/temp/ryuunji.html

長岳寺 駒場 黄金の前たて

駒場という地名のついた場所は無数にありますが、長岳寺そばにも駒場(こまんば)という地名があります。

さらに、長岳寺には、黄金の兜の前たてがあり、専門家の鑑定では、室町時代後期のものである、とのことでありました。
この前たて、同型のものが山梨県甲府からも出土しており、武田家とのつながりが強く推認されます。
そして、長野県阿智村という僻地(大変に失礼)に、これほど見事な金細工がある事自体が不自然です。

画像引用 南信州ナビ

<参加者募集>名古屋発着『織田信長、武田氏討伐の道をたどる』|南信州ナビ長野県南部の観光ガイド|飯田市と周辺地域のくだもの狩り・桜・温泉・川下り等

推論

これらの証拠から、推論されるのは、以下のストーリーです。

信玄公は野田城の戦いの後、病状が悪化し、伊那街道(三州街道)を通って甲府までお戻りになろうとしたものの、さらに病篤く、駒場周辺でお亡くなりになりました。
ときは1573年旧暦4月12日、現在の新暦では5月中旬の頃合いです。
当時は冷蔵、冷凍保存という技術はありません。
5月中旬といえば、ご遺体の傷みは早く、信玄公のご遺体をそのまま甲府に運ぶということは不可能でありました。

そこで、お亡くなりになった場所からそれほど遠くない地点で荼毘に付されたと推察します。
阿智村には不釣り合い(大変に失礼)な黄金の前たては、信玄公が亡くなった、荼毘に付した等の謝礼として寺に寄進したものではないか、と推察します。

このような理由で、私は長岳寺を武田信玄公が荼毘に付された場所、と推察するのであります。

本墓地は、すでに遺骨となられた信玄公を弔う儀式を行った場所ではないか、と推察します。
信玄公がお亡くなりになった三年後、公の遺言に従い、まず躑躅ヶ崎館(信玄公がお住まいであったところ)の近くで近親者が集まる葬儀を行い、改めて遠方の恵林寺で大々的に葬儀を行ったのではないか、と推察します。

本墓地からは、信玄公の銘の入った石棺は出土したようですが、信玄公の遺骨があるのかどうか、それは不明と考えます。

とはいえ、公ほど偉大な方であれば、遺骨があろうとなかろうと、そのご偉業をたたえ、なつかしむことは可能でありまして、本墓地はまさに尊い場所なのであります。





本日はこのあたりで宜しいと存じます。
以上、ラッコ店長こと、奈須野でした。

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