皆様、こんにちは!!
ラッコ店長です。
1877年4月11日、田原坂方面の友軍を支援すべく、薩軍は八代を攻撃しました。
八代城は見事なお城でございました。
石垣、土塀が素晴らしいです。
枯山水の庭園、と思われます。
実に見事な桝形虎口(ますがたこぐち。ますがた、とは四角いという意味で、こぐちというのは虎の口と書くように、危険な場所、という意味です。敵さんを狭い空間に閉じ込め、四方から矢玉を浴びせかけることで、敵さんに倒れて頂くことを目的とした施設のことです。)
素晴らしい!!
城内への道がクランク状に折れ曲がっています。
観光客さんの大きさから、いかにこのクランクが巨大かがお分かりになると思います。
我が薩軍は八代を総攻撃致しましたが、増援を重ねた政府軍に押され、やむなく撤退致しました。
この時、独立大隊の長である、別府晋介さんが負傷なさいました。
薩軍は苦境に立たされておりましたが、まだまだ各地に兵力は健在です。
1877年4月17日、桐野隊長主導のもと、分散していた兵を熊本城東に集結させ、政府軍を迎撃する作戦が立案されました。
後世に言う、城東会戦です。
薩軍、政府軍、双方合わせて40,000という軍勢が、熊本平野全域で衝突しました。
一進一退の攻防が続き、戦いは長期化するか、とも思われました。
しかし、薩軍が本営を引き下げたことで、連られた友軍も後退、戦線が崩壊して、一挙に政府軍の突入を許してしまいました。
(後の祭り、ではございますが、我が薩軍は士族の師弟を中心に構成された軍で、個々の戦闘力には優れておりました。しかし、それぞれの指揮官の我が強いこと、軍を編成してから日が浅く、統一的な行動を苦手としていたこと、などが敗因でございました。)
このようにして、関ヶ原の戦い以来、我が国史上、最大の野戦とも言える城東会戦はわずか一日で終結したのでした。
ともあれ、我軍は人吉方面に撤退し、捲土重来(けんどちょうらい)を図ることに致しました。
本日はこのあたりで宜しいと存じます。
それでは、皆様、次回お会いするときまで、ごきげんようです!!
以上、ラッコ店長こと、奈須野でした。
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