皆様、こんにちは!!
ラッコ店長です。
宮崎から撤退
宮崎の市街地から、政府軍の攻撃をしのぎつつ、北上していきます。
延岡 西郷先生自ら陣頭指揮
延岡まで退却し、軍を再編することになりました。
その夜、軍議が開かれ、西郷先生がおっしゃるには、明日の決戦は先生が自ら陣頭指揮をなさる、とのことでした。
諸将がお止め致しましたが、先生の決意は固く、先生の思いを翻すことはできませんでした。
今にして思いますと、これは先生の優しさの現れではなかったか、と思われます。
鹿児島を出陣して以来、先生はすべての会戦の采配を部下に任せ、ご自身は直接的な指揮をなさいませんでした。
それは部下を信頼している、ということもありましょうし、このような表現は奇妙でありますが、そもそも薩軍が敗れることを望んでおられた、という感もあります。
しかし、最後の決戦は先生自ら指揮をなさることで、敗戦の責任は自分にある、とお示しになろうとしたのではないか、と思われたのでした。
いずれにせよ、我軍は3000の将兵を小高い丘である和田越(わだごえ)に展開することに成功し、政府軍の迎撃体制を整えたのでした。
山縣有朋殿
物見の兵を差し向けますと、政府軍の総大将には、山縣有朋殿がいらっしゃる、とのことでありました。
かつては倒幕の同士、新政府樹立後も共に道を歩んできた仲でありますが、このように相対することになろうとは、なんということでありましよう。
山縣殿は歴戦の有志らしく、和田越近くの高台の上に陣をひいていました。
これで、両軍の総大将が間近に布陣したことになります。
戦闘開始
開けて早朝、戦闘が開始されました。
我軍は高地に布陣していたため、砲の威力を最大限に発揮することができ、戦闘を有利に運ぶことができました。
しかし、和田越を包囲する政府軍は、我軍の10倍以上、50,000もの兵を集結していたのです。
日が高くなるころには、戦線を支えきれず、じりじりと守備隊が押し込まれていきました。
撤退 長井村へ
そして、ついに和田越から、さらに北へと撤退を余儀なくされました。
後に振り返ってみると、この和田越の戦いが、我軍が組織的に戦闘をした、最後の戦いとなったのでした。
本日はこのあたりで宜しいと存じます。
それでは、皆様、次回お会いするときまで、ごきげんようです!!
以上、ラッコ店長こと、奈須野でした。
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