2021年12月24日-2022年1月7日 西南戦争、西郷隆盛さんの足跡をたどる / その16 西郷菊次郎さん 解軍令 可愛岳突破

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皆様、こんにちは!!
ラッコ店長です。

本記事は


の続きです。

長井村に撤退

和田越(わだごえ)の高地で政府軍を迎撃したものの、あまりにも彼我の兵力差が大きく、我軍は撤退を余儀なくされました。
さらに北に進路をとり、長井村という村落に本陣を移しました。

西郷菊次郎さん

ところで、西郷先生には何人かのお子さんがいらっしゃいます。
この度のいくさでは、奄美大島で出会った愛加那(あいかな)女史との間にできた男児、西郷菊次郎さん(後に外務省 米国公使館勤務、京都市長を7年務めるなどでご活躍。)が従軍しておられました。
菊次郎さんは、先の和田越の戦闘で右足を切断する、という痛ましい戦傷を負われ、付近の民家で療養しておいででした。
先生は、菊次郎さんに、以後、軍務から離れてこの地での療養することを命じました。

解軍令

その夜、軍議が開かれ、先生から重大な発表がなされました。
我軍の進退はここに極まった。
降伏したい者は降伏し、それぞれの思うようにせよ。
とのことでありました。

西郷先生のこの指令によって、政府軍に投降するものが相次ぎました。
残った兵は1,000名ほど。
最後まで先生のそばを離れない、という精鋭たちでした。

帰薩 包囲網突破

誰からともなく、桜島をもう一度見たい、薩摩に戻ろう、というお話が盛り上がりました。
そして、遠く離れた薩摩まで、戻ることが決定したのでありました。
戻る、といっても周囲は十重二十重(とえはたえ)と政府軍に囲まれています。
どのようにして帰薩するのか!?

可愛岳

このとき、後背の包囲網が最も薄いと思われました。
それは、峻厳な山がそびえているので、軍隊が移動できる訳がない、と政府軍が判断していたからでしょう。
首脳陣はしばらく悩んだ後、後背の可愛岳(えのたけ)を突破することにしたのでした。

陸軍元帥制服

軍議が終わったあと、先生は庭先で、陸軍元帥の制服をお焼きになっておりました。
軍隊を解散した以上、もはや陸軍軍人としてではなく、一介の西郷吉之助さんとして行動する、というご意思であったと推察致します。

本日はこのあたりで宜しいと存じます。
それでは、皆様、次回お会いするときまで、ごきげんようです!!
以上、ラッコ店長こと、奈須野でした。

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