高遠城 武田信玄公 五男 仁科盛信さんを思う / 長野県 県歌 信濃の国

歴史

皆様、こんにちは!!
ラッコ店長です。

高遠城(たかとおじょう)について述べます。

実際に道を走ってみると良くわかりますが、高遠城は伊那から諏訪湖方面に抜ける峠、登り坂の、一番手前にあります。
つまり、伊那方面から諏訪湖に進むためには、ここを突破しなければならないのです。

そのため、交通の要衝、事実上の国境としてこの高遠城も築かれました。


戦国末期には、諏訪氏庶流の高遠氏の居城となります。
その後、武田信玄公の支配下となります。

前述しましたように、高遠城は重要拠点であったため、秋山信友さん、諏訪勝頼(武田勝頼)さん、武田信廉さんといった武田家中の重臣、親族の方々が城主となりました。
そして、1581年、仁科盛信さん(武田信玄公の五男。武田勝頼さんの異母弟。)が城主となりました。


高遠城の名を高めているのは、この仁科盛信さんのご活躍があったから、と勝手に推察します。

皆様もご存知のように、信玄公亡きあとの武田家中は、長篠の戦いの大敗、度重なる出兵、賦役などで大きく揺らいでおりました。

信玄公のご時世には、あれほど精強を誇った武田軍が、なんと織田家に寝返るものまで出る始末(穴山梅雪さん、木曽義昌さんなど)。
その間隙を突くように、1582年、織田信長さんは武田領に侵攻します。
さらには、親族の中にすら戦わずに撤退、勝頼さんを見捨てるものが相次ぎました(武田信廉さん、小山田信茂さん)。

そのような中、仁科盛信さんは、織田家からの降伏勧告をつきはねました。
10倍以上の兵に囲まれ、絶望的な戦いではありましたが、最後の最後まで武田家のため戦われました。
仁科信盛さんは、自刃してお果てになりましたが(享年26歳)、その忠義の心は今でも人々の心を動かし、仁科信盛さんのお墓(高遠城のすぐそばにあります)には、供物、献花が絶えません。




ところで、長野県の県歌「信濃の国」、というお歌をご存知でしょうか。
にーしなの ごーろう のーぶものもー という一節がありまして、郷土が誇る偉人として、今なお語り継がれているのであります。

県歌「信濃の国」/長野県

引用 長野県 県歌 信濃の国


人の生き方は様々でございますが、本能寺の変の前後で、都合よく敵方に裏切った、なびいた方々は、ほとんどすべて悲劇的な末路を遂げました。

今までの大恩をなげ捨て、裏切りによって得た勝利など、やはり人望がついてこないのでありましょう。

それを思うと、仁科盛信さんの生き様が、まことにあっぱれで、武士とはこのように生きるべきである、と強く心を打たれるのであります。


本日はこのあたりで宜しいと存じます。
それでは、皆様、次回お会いするときまで、ごきげんようです!!
以上、ラッコ店長こと、奈須野でした。

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